観桜意識の形成と嵯峨天皇の神泉苑桜宴

(整期优先)网络出版时间:2018-03-13
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観桜意識の形成と嵯峨天皇の神泉苑桜宴

韩礼巧王燕

韩礼巧王燕

西安外国语大学日本文化经济学院陕西西安710128

要旨:日本には花見の対象といえば、平安時代以前には、日本人にとってその舞台に桜より外来の梅はもっと輝いている花であった。しかし、平安時代に入ってからその注目を段々梅から桜に移って、桜は花見における主なの対象と見られるようになった。古代の日本に、このような突然の変化とはきっと貴族という支配者の間に何かの行動をしたはずだと思う。日本の『日本後紀』によって、弘仁3年嵯峨天皇が「神泉苑に幸して花樹を覧る。文人に命じて詩を賦さしめ、綿を賜うこと巻あり、花宴の節はここに始まる」という記述はある。そして、この神泉苑花宴は資料に記録された桜宴とも言われ、観桜の宴の最初とされる宴である。その後、桜は花見の対象という舞台に現れた。ということで、日本での観桜意識は形成されたように見えられる。では、この桜宴は日本の観桜意識の形成にどんな役割を果たしたのか。また、その意識は一体どのように形成されたのか。本文では主にこれらの問題について考察してみたいと考えている。

キーワード:嵯峨天皇;花宴;桜;貴族

一、観桜意識の形成

平安時代以前には、桜は農作業を始める時期に咲くから、その年の収穫の吉凶を占うことが出来ると思われて、農耕稲作と密接に関わる花と考えられた。しかし弘に2年、嵯峨天皇は地主神社への行幸の折、満開の桜を非常に気に入り、桜を見るために何度も車を引き返させた、以降地主神社から毎年も桜を献上させて、桜に惚れ込んだん嵯峨天皇が翌年に桜の花宴も開いた、桜の花見は貴族の間で急速に広まり、これが日本人の桜好きの原点と見られる。これで、平安時代を始め、桜は観賞用の花に変わった。そういう変化をよく表せるものとする日本の和歌集にも表現されている。日本最初の歌集『万葉集』には梅を詠んだ歌が120首ほどに対して、桜を詠んだ歌がおよそ40首だが、平安時代に編まれた『古今和歌集』では、桜は56首、梅は29首、『万葉集』の数では桜は全然主役とは言えないが、『古今和歌集』になると、その立場が急に逆転した。その後も大体変わらない状況である。また、嵯峨天皇の皇子、仁明天皇(在位833-850)より、「左近の桜」を創始した。平安京の内裏の紫宸殿前庭には、一対の樹木が植えられていた。所謂「左近の桜」、「右近の橘」である。『古事談』によって、そもそも左に植えられたのは桜ではなく、梅だったが、仁明天皇より梅を桜に変えたのである。こんな重大な転換こそが日本の支配層では桜への関心はますます深くなる証であるはずではないかと考えている。

その後、894年に遣唐使が廃止されたから、日本人は徐々に国の文化に目を止まり始めたので、外来の梅と比べて、自国の桜への関心がもっと深くなった。それから、前文も言ったように、歌集における桜の数は『万葉集』より、『古今和歌集』の方は急に多くなった。しかも、数の変化だけではなく、『万葉集』と『古今和歌集』の歌を分析すると、『万葉集』の中に歌われた桜は主に山麓や山腹、峰に咲く山桜であるが、平安時代に編まれた『古今和歌集』では山から山桜が貴族の邸内や寺社に移植されるようになったということが分かってきた。歌の内容も、開花の様子を詠むでけではなく、散りゆく姿も読むようになった。つまり、『万葉集』の時代には、ただその桜は山にあるから、見た人はそれを吟唱したそうと見えるが、『古今和歌集』の時代になると、わざわざ自分の場所に移植して、容易に観賞できるようにした。こういう変化は再び日本人の観桜意識の形成のシンボルであると思う。ということで、日本には観桜意識はまさに平安時代に入ってから形成し始めたものである。

二、嵯峨天皇の神泉苑桜宴

1.嵯峨天皇

嵯峨天皇は平安朝初期の天皇、在位809-823年、御歳24歳で即位され、御在位14年、皇位を淳和天皇に譲られ、承和9年7月15日、57歳で嵯峨院(今の大覚寺)で崩御された。桓武天皇の第二皇子として、幼い頃から聡明で読書を好み、博く経史に通じ、詩文に長ぜられるから、天皇の身分の他に、僧空海、橘逸勢と一緒に三筆と称された漢詩人で書家でもある。また、日本には810年に嵯峨天皇より「薬子の変」のおさめから、任明天皇の治世(833-850)まで、続いた平穏な時代を経た平安京はいろいろな面にわたって特に文物の方が急速に発達した。中国の文治政治を理想と仰いだ嵯峨天皇は、唐から戻った空海?最澄を始め、留学生の知識を重用し、中国のように文人を積極的に重視した。そして、嵯峨天皇は唐の漢詩を愛して、自身も優れた漢詩作者として、『文華秀麗集』のような、天皇自ら作詩し、高官も詩を嗜むという宮廷の雰囲気を平安京で作ったのである。

2.神泉苑花宴

『日本後紀』より翌年「神泉苑に幸して花樹を覧る。文人に命じて詩を賦さしめ、綿を賜うこと巻あり、花宴の節はここに始まる」の資料では、この神泉苑花宴に花を観賞だけではなく、「詩を賦さしめ」ということも行うようである。前文に記述したように、嵯峨天皇は作詩の愛好者である。例を挙げると、『文華秀麗集』は弘仁貞観文化が誇る勅撰三集(漢詩集)の二番目に当たる作品です。現存する詩は全部で143首(記録に拠ればもとは148首あったようです)。28名の詩人を擁する集の中に、嵯峨天皇の御製は集中最多数の33首を占め、名実共にその時代最大の詩人であったことを言える。日本の文化史を通覧すると、平安時代は独特の和風文化が形成された貴重な時期だと考えられる。しかし、まずその前に、高い文明に素朴に憧れ、真剣に唐の文化を学んでから文物の水準が上がり、独自の和風文化はその土台の上に確立したのではないかと思う。それで、嵯峨天皇の時代はまさにその土台を急速に固め高くした時期であったと言えそうだ。この時代では、嵯峨天皇のリーダによって、貴族を中心に漢詩を作る人は多くなって、『凌雲集』『文華秀麗集』等の漢詩集が勅撰されてある。それらの漢詩集に嵯峨天皇の作品もたくさん収められる。こんなに漢詩を吟唱することが好きな嵯峨天皇の場合には、この花宴を開催する目的というと、もしかすると、桜を鑑賞するより、桜を吟唱の対象として「詩を賦さしめ」ということこそがこの花宴の主な目的ではないかと思う。

そして、嵯峨天皇の御制ー「神泉苑花宴赋落花篇」という『凌雲集』に載る漢詩は名前の通り、神泉苑で賦したものであるが、果たして今回の神泉苑花宴にできたかどうかまだ確認できないけど、この文章で持ってちょっと参考にしてみたいと思う。

過半靑春何處催

和風數生百花開

芳菲歇盡無由駐

爰唱文雄賞宴來

見取花光林表出

造化寧假丹靑筆

春も半ばを過ぎた頃、何がそうさせるのか、

やわらかな風がしきりに吹いて、

あまたの花がものにせかされるように咲くことである。

芳しい花の香りは失せようとして、止めることはできない。

そこで、文雅の友に呼びかけて、

(優れた詩人である人びとは)花を愛でるこの宴にやって来たのである。

花園に入ると、輝く花の光が林の外にまで溢れているのがはっきりとわかる。

造化の神の造りなしたもうこの美しさは、

人工の赤青の絵の具の筆を借りる必要があろうか。

春も半ばを過ぎる頃、風も穏やかに柔らかく巡る中、何ものかに促されるように、せき立てられるように、いろいろな種類の花々が一気に開き出す。そこから詩が始まります。

あまたの花は開き、盛んな春を謳歌しているけれど、やがてその香は失せ、終わりの時が来るのはどうしようもありません。そこで、この一時の輝きを愛惜しようと人びとを呼んだのだ、と詩は語り出します。

嵯峨帝が「文雄」すなわち文芸に優れた人たちを呼んだとあるのは、もちろんそこで花をただ観賞するだけではなく、詩を作ることが想定されているからです。この「宴」は詩の宴なのです。では、なぜ桜をこの詩の宴の対象としたのだろうか。ここの「芳菲歇盡無由駐」(芳しい花の香りは失せようとして、止めることはできない。)から見れば、なんだか仏教の思想ー「無常」「儚さ」と関わるんではないかと思う。前文言ったように、嵯峨天皇が唐から戻った空海(真言宗の開祖)?最澄(天台宗の開祖)を始め、留学生の知識を重用する。だから、唐で新しい仏教、密教を学んで帰国した弘法大師空海に東寺を託した。それで、日本では初めての密教寺院がそこで誕生した。これらのことから見ると、嵯峨天皇は仏教にも非常に大切して信仰していると思われる。このように、深く仏教思想に染まれた嵯峨天皇は、桜の開花期間は非常に短いところは、仏教の「無常」「儚さ」と合うから、桜に目を引かれたかもしれないと思う。

それで、嵯峨天皇の時代は、この神泉苑桜宴にできた「神泉苑花宴赋落花篇」のように、嵯峨天皇より作詞されて、臣下がそれに和すという形で沢山の漢詩が作られた時代である。『凌雲集』、『文華秀麗集』『経国集』といった勅撰漢詩集が相次いで編纂されたことからどれだけ漢詩が作られたかのも見られる。この神泉苑桜宴の後、弘に六年二月十八日また神泉苑で、弘に十四年二月十八日に有智子内親王の春日山荘でも桜宴が行なわれた。すなわち、桜はその神泉苑桜宴を始め、貴族たちの吟唱対象にして見るようになった。更に、「花の宴」は天皇主催の定例行事として、天長8年(831年)には場所を宮中に移した。これで、宮中の紫宸殿、清涼殿でも、天皇、東宮から、貴族、文人、女房達までが、桜の下に詩歌の宴を開くようになってきた。そして、その花見の形式は時代の変遷とともにまた変化するけど、今の桜は日本人にとって、もう日本の国花と思われ、日本の代表と言える地位に置かれている。そのため、その意識とはまさに詩歌という鍵を通じてだんだん日本人の頭に入ったんではないかと思う。

三、結論

総じて言えば、日本人の桜に関する美意識の変遷歴史では、嵯峨天皇の神泉苑桜宴はまさに桜の美の世界への幕を開く鍵であって、確かに大切な転換点と称するべきだと思っている。それがあったらこそ、桜を平安時代の貴族の間にもたらして大きな範囲で桜を鑑賞するような花宴活動が行われ初めた。それから、その意識もそれがあったらこそ、ほかにもいろいろな詩歌の宴があったらこそだんだん形成されたと考えている。

参考文献

[1]田中秀明(2003)『桜信仰と日本人』青春出版社.

[2]中西進(1995)『花のかたち—日本人と桜—「古典」』角川書店.

[3]安藤潔(2004)『桜と日本人:?ート』文芸社.

[4]桜井満(1994)『花と日本人』雄山閣.

[5]C?Wニコル?堺屋太一(2010)『NHK歴史は眠らない』教育テレビ.

[6]『歴史ヒストリア:日本人と桜の物語』NHK,2015年3月25日.

[7]本居宣長(1816)『石上私淑言』.

作者简介:韩礼巧,1994年3月17日出生,女,汉族,现就读于西安外国语大学日本文化经济学院2016级日语语言文学专业。主要研究方向:日本文化。

作者简介:王燕,1993年7月1日出生,女,汉族,现就读于西安外国语大学日本文化经济学院2016级日语语言文学专业。主要研究方向:翻译。